玉井済夫先生

玉井済夫先生は、天神崎の保全活動が始まった初期の頃から当会の理事を務められてきました。自然保護や環境問題についての調査・研究活動に積極的に取り組まれるとともに、子供達への環境保全教育及び実践指導にも力を入れ、天神崎一帯の保護活動に多大なるご尽力を頂きました。長年に渡る理事の責任を全うされ、会の基礎を安泰ならしめた功績は計り知れません。令和4年5月に理事を退任され、晩年は相談役として見守って下さいました。

令和6年2月18日享年87歳を以てご逝去されました。

天神崎だより125号(令和4年11月発行)に寄稿頂いた文章をご紹介します。

天神崎の保全を振り返って

                                                                                                                                                            玉井      済夫

子どもの頃

 小学校の時は、ミミズを掘って近くの会津川にハゼ釣りによく行った。中学校になると釣り友達ができて、海へ釣りに行くようになった。川口でゴカイを掘り、池の小さなエビを掬って餌にした。市内から子どもでも自転車で行ける天神崎にも行き始めた。干潮時に大きく広がる平らな磯、たくさんの潮だまり、田辺湾の広大な景色などが、楽しく嬉しかった。磯で釣りをしていると、いつまでも飽きることがなく、時間も忘れるほどだった。潮だまりでは、顎にひげのあるオジサンという名の美しい魚を釣った。初めて見る魚にわくわくした。

 磯の先で釣りをした時のこと。手のひら大のイガミ(ブダイ)が2匹も釣れて、大変興奮した。夕暮れとなり、もう帰ろうと思って後ろを見ると、潮が満ちていて磯全体が海になっていた。磯の高いところが点々とあったが、どう歩いて戻ればいいかが分からなかった。魚籠とさおをもって、ズボンを上にめくり、足場を探りながら少しずつ歩いた。やっと岸に着くとパンツまですっかり水浸しになっていた。この時、潮の干満のことを身をもって知った。家に帰ると、母はおかずができた、と喜んだが、私は満潮時の磯の恐ろしさを繰り返し話した。

教員となって

 私は大学で生物学を学び、最初は大阪府立阪南高校で教員となった(1964年)。その時に、レイチェル・カーソンの「サイレント スプリング」(沈黙の春、1962年)を読み、DDTなどの化学物質が自然界(生物)に大きな影響を与えていることを知った。私はこの本に刺激されて、授業で生徒たちにもその話をした。このことは自然環境に対する私の関心を高めることになった。その後、郷里の田辺市に帰り(1972年)、田辺高校で教員となった。田辺高校には後藤伸先生(生物)がおられて、非常に熱心に紀南の山間部(熊野)の自然調査を続けておられた。私もその仲間に入れてもらって、一緒に調査を続けることになり、私は両生類の生態調査を主テーマとした。仲間の皆さんと共に活動しながら、県内各地の自然調査やその保全を進めようということになり、和歌山県自然環境研究会を組織して、自然調査・保護・自然解説(教育活動)などに取り組むことになった。

 学校では生物の授業と生物部の指導にも力をいれ、理科教育と自然保護教育を実践した。生徒たちにはできるだけ生物に触れる機会を増やそうとして、夏の宿題にはいろんな生物を観察して描くことを課した。海岸の生物については、天神崎でウニ・ナマコ・エビ・カニ・フジツボ・イソギンチャク・海藻類‥‥などを描かせた。暑い夏の磯で生物を描くのはかなりハードなことだったが、教科書で習うこと以外に、自身で直接生物に触れる機会を増やし、生命への関心を高め自然の仕組みを知ることを願った。

外山八郎先生との出会い

 後藤先生と私は田辺高校にいたが、近くの田辺商業高校(現在は神島高校)に外山八郎先生がおられた。外山先生は商業科目を担当されて、学校ではカウンセラーの役も持ち、生徒指導にも力を入れていた。いつも穏やかな話しぶりで、大変きちんとされていて、クリスチャンであった。その外山先生が、1974年1月の寒い日の放課後、田辺高校の生物教室に来られた。外山先生は、田辺商業高校の同僚の先生から聞いた話として、天神崎の海岸林(丘陵地)に別荘群の建設計画があると言う。それで、私たちに意見を求められた。後藤先生は即座に、困ったことだ、と言われ、その理由を述べられた。陸域の森林(海岸林)がなくなることに加えて、それによって周辺の磯の自然が損なわれ、田辺湾への影響についても話された。その後の天神崎保全活動においては、「森・磯・海が一体となった生態系を維持しよう」という目標を掲げてきた。

 外山先生は、自然に関心の深かった紀伊民報(田辺市)の小山周次郎社長とも相談し、翌月の2月9日、天神崎の自然の保全を願う市民有志と共に最初の会合を開いた。その会の名称を「天神崎の自然を大切にする会」としたのも、クリスチャンであった外山先生の意見でした。「守る」という言葉には、“敵から守る”という意味が含まれ、別荘の建設やそれを進める方々を敵とするのではない、と強調された。こうして「天神崎の自然を大切にする会」(会長:小山周次郎)が出発した。

 はじめにしたことは、天神崎の保全を願うための市民署名で、市内の町内会・老人会・婦人会・子供会はじめ、各種の多くの団体や個人に訴えて署名を進めた。短い期間(約1ヶ月)に16,000名の署名(当時の田辺市の人口は約60.000人)が集まり、その署名簿を添えて田辺市長と和歌山県知事に要望書を提出した(1974年)。当時、天神崎は「南部田辺白浜海岸県立自然公園」であったため、県が保全策を進めることが期待された。しかし、県の自然保護条例(当時)によると、県立自然公園の第1種地なら対応できるが、天神崎の海岸林は第3種地(普通地域)であるため、県の保全対策の対象にはならなかった。市も県も保全策はないという回答であったため、大切にする会としてはまことに困り、今後どう進めるかについて模索した。

募金活動

大切にする会の会員は、行政(市・県)が解決できないのであれば、この運動はこれで終ろうという意見と、何とか打開策を探って保全しようという意見に分かれた。そうした中で、別荘予定地を買い取ろうという案が示されたが、それに対しては賛否の対立した議論が続き、まとまらなかった。その議論が続いた結果、「大切にする会」とは別に、土地の取得を進めるための会を、やむを得ないこととして別に作ることになった。それが「天神崎保全市民協議会」(代表:多屋好一郎、事務局長:外山八郎)であった。これが市民地主運動の始まりである(1977年)。土地の買い取り募金といっても億単位が目標となるので、これには市民の中からも批判された。それでも、その方法が唯一のことと信じて、外山先生や多屋好一郎さんたちは苦しいながらも、賛同者と共に募金活動を進めることになった。

 募金活動に賛同する有志や外山先生を慕う方々が集まって、田辺出身で全国各地にいる方々に手紙を出して、土地を買い取る資金の寄付をお願いし始めた。自分たちで経費を負担しながら何日も封筒書きの仕事を続けた。そして、市民協議会のタスキをつけて、市内での街頭募金や各団体にも呼び掛けて募金への協力をお願いし、資金を募った。そうしながらも、市長や市議会、県知事には何とか協力や支援が願えないかと、いろんなお願いを繰り返した。天神崎の海岸林を県立自然公園第3種地ではなく、第1種地に格上げしてほしいということも願った。

 こうした中、運動が始まった翌年(1975年)から市民に呼び掛けて天神崎自然観察教室を始めた。そして、(財)日本自然保護協会がこの運動への支援をしてくれることになり、保全活動の基礎として天神崎の自然調査をすることになった。この調査は、後藤先生を中心として和歌山県自然環境研究会が担当して、海岸林と磯の調査をし、調査報告書を作成した。子どもたちのために自然観察の手引書も作った。

募金活動への支援

 こうした募金活動は、1895年に、英国で始まったナショナル・トラスト活動と同じであることが分かり、当時はこういう活動が日本では珍しかったため、各種の報道関係の取材が続いて全国的に知られることになった。そして、切々と訴える外山先生の言葉に、全国各地の方々が聞き入り共鳴されて、温かいご理解による寄付金が次々と寄せられた。さらに、応援や支援をしていただく団体・個人が増えてきて、組織的な支援や定期的な支援をいただくことにもなった。特に、「天神崎の土地買い取り運動を支援する和歌山音楽家音楽愛好家の会」が設立されて、音楽会の開催などを中心に支援活動が続いた。

 困難を極めた募金活動であったが、同時に、外山先生たちは別荘建設の計画をしている方々との話し合いを続けていた。その建設会社との交渉はまことに厳しく難しいことで、何度話し合っても前進することにはならなかった。募金により土地の取得を目指していることも、すぐには理解していただけなかったが、土地の取得を願って話し続けられた。こうして外山先生の苦心・苦労は、いくつもの局面に対峙しながら進んでいった。それはまことに大きな困難であり、筆舌し難いことであった。

別荘予定地の取得と行政の支援

 外山先生は繰り返し丁寧な説明や折衝を続けて、別荘予定地は本会が取得する方向への理解をいただき、数回に分けて取得して、1985年に完了した。この時は、会をあげての大きな喜びとなり、地権者はじめご寄付いただいた皆さんに心から感謝した。そして、「天神崎の自然を大切にする会」と「天神崎保全市民協議会」の二つの会は、「天神崎保全市民協議会」を解消し、その後は「天神崎の自然を大切にする会」として活動を続けることになった。また、土地取得の関係もあって財団法人として県知事から認可をもらった(1986年)。続けて別荘予定地以外の天神崎丘陵地の森林の取得を目指した。

 この経過の中で、県としても天神崎への支援が始まり、保全地の確保のため田辺市への助成金を出し、田辺市も資金を負担して土地の取得を続けた。また、こういう団体に対する国の税制度も変わり、公益増進法人(通称ナショナル・トラスト法人)として認めることになり、本会はその第1号になった(1987年)。ずっと後になっては、法律改正により本会は公益財団法人として認可された(2010年)。

未来に向かって

 天神崎の運動は、初期の10年間余の時期が最も苦しい日々であった。財団法人となって以後は、組織的にも確立し、理事・監事・評議員・事務局により運営をすることになった。土地取得や各種の事業運営のための資金面では苦しい状況は変わらないが、会員はじめご寄付いただく皆様方のご支援により、何とか運営を続けている。会員数は一時2,000名を超えていたが、今は700名ほどに減っている。

地球のごく一部である天神崎ですが、「未来の子どもたちのために」という合言葉で、豊かな自然環境を大切にしながら活動を続けています。今、天神崎でいろんな生物に触れてはしゃいでいる子どもたちの姿は、この運動の大きな成果であり、同時に、私たちにとって力強い激励でもあります。これまでの皆様方のご支援には心から感謝しています。

明日のために、遠い未来のために、今後とも皆様方の温かいご支援を心からお願い申し上げます。